ヤマビコブログ

雑多にいろいろ

選択

したいことを考えるのではなく、したくないことを徹底的にしないという、削ぎ落とす思考で物事を考えていくと人生がよりシンプルになると聞いたことがある。あれやこれややりたいと思ってしまう私にとっては、いままでの自分にはない新しい方向性を見出せる新鮮な言葉である。あれもやりたいこれもやりたい!ではなく、あれはやりたくないこれもやりたくない!と自ら選択肢を切っていく。積極的消去法とも言える(イエスマンに対するノーマンという位置付けではない)。こういう知的メタボリックな方、案外多いのではないだろうか。これを教えてくれたのは島根県隠岐の島で暮らしていたときに知り合った、農家をやりながら養蜂を生業している方。

彼は人生に対するシンプルすぎる考え方が混沌とした都会ではマッチせず、あるとき自転車ではるばる島根に行ったとき、石見銀山にある群言堂の女将さんにこの島を勧められたことで定住し始めた。生物多様性には欠かせない受粉昆虫の代表であるニホンミツバチの繁殖を手伝い、それと同時に彼らに必要な蜜を地上に増やすため、化学肥料にまみれていない菜の花などの植物を育て、人間として自然にできることを考えてコツコツと実践している人。

しかし、新しいことをすると絶対に反対者は出てくるもの。特に「島」という超・閉鎖空間にあってはなおのこと新しいことに対して風当たりが激しい。あいつには無理だみたいなことを平気でいう。可能性が芽を出す前に潰してしまう。ただ、彼は常にその逆境に負けずに徐々に理解者を増やし、都会には見いだせなかった彼の理想郷を着実に築いていっている。

そういえば映画『沈黙』で「沼地に植物は育たない」と言っていた。この言葉を借りると、日本に植物(ここでいう新しい風)が育たないのは、もう地面が痩せ切って、国民が疲弊してしまって、可能性という新芽に対して愛情を注ぐことができないからなのだと思う。自分の栄養分を環境に吸い取られて、夢に対して不感症になってしまっている。圧倒的な夢に対峙した時に、それをイメージすることすらできなくなっている。

 

目の前のことをやってれば救われる世界が終わりを告げて、目の前のことをやっていてもなんにも報われないこの時代。自分の選択が生きるような選択、正解だったと思える選択をしていきたい。振り返った時に幸福度が増しているような選択を続けていきたい。その選択を正せるかどうかは自分次第。

人生は選択の積み重ねとはよく言う。最近本当にそれを実感する。

いつもと違う洋服を着てみるとその服いいねって言ってくれる友人がいる。いつもと違う食事をすると人にオススメできて話に花が咲く。選択を変えると違うものが見えてくる。登山道を外れて獣道を進んでいくと普通では見れない景色が見えてくる。

自分の尊敬する人は「自由」を「選択できること」と表現している。獣道を歩んでいける体力のある私でいたい。険しい獣道を歩んでいける意思を持ち続けていたい。私は自分の意思に基づいて、誰にも阻まれずに自分の選択を続けていける人生にしたい。そして、自分の選択を、そういう選択が身を結ぶ。そういう世の中になったらいいなあと、そう思う。

 

そして、「これあったらいいな」を自在に仲間と作っていける人生にしたい。